界面駭客日記(12) - 混沌のUbiComp 増井俊之


ドイツで開催された Ubiquitous Computing(UbiComp)に関する 小さなワークショップに参加してきました。 どこでも小さなコンピュータが無数に偏在するという UbiCompが Xerox PARCの故Mark Weiserにより提唱されたのは10年前のことですが[*1]、 近年の計算機小型化技術やセンサ技術の進歩によって、 その実現はかなり現実的になってきました。 生活の中の見えない部分で沢山の小さな計算機が使われることによって、 生活が格段に便利になるだろうという考えを疑う人は ほとんどいないでしょう。
UbiCompに関する 世間での認知度もかなり上がってきたように思われますが、 その一方で、 似たような技術を異なる名前で呼ぶ人達が増えてきたようで、 若干用語が混乱気味です。 インタフェースの評論で名高いドナルド・ノーマンは 著書「Invisible Computer」[*2] (邦訳:「パソコンを隠せ、アナログ発想でいこう」[*3])において、 計算機の使いにくさを被い隠した 「情報アプライアンス」を提唱していますが、 これはUbiCompの考え方と非常に似ています。 ヨーロッパでは Invisibleならぬ 「Dissappearing Computer」という国家プロジェクトが 開始していますし、 UbiCompのことを「Pervasive Computing」と呼ぶ人達もいます。 その他、 「実世界指向インタフェース」 「Augmented Reality」 「Tangible Bits」 など、 現在とは形を変えた計算機が生活の中に溶け込んでいく ことを示す様子が様々な言葉で語られるようになっており、 その名を冠した雑誌やコンファレンスも登場したりして かなり混乱した状態になってきています。

ハード/ソフトの機が熟したことにより このような混沌が生じているわけですが、 これは15年ぐらい前に ワークステーションやウィンドウシステムが 普及しはじめた頃になんとなく状況が似ています。 当事は、 ビットマップディスプレイやマウスのような入出力機器が普及しつつあり、 それを利用するために 各種のウィンドウシステム/ツールキット/OSが提案されては 消えていきましたが、 激しい競争の欠陥、 現在はWindowsやX Window Systemなどのように 数種類のものしか残っておらず、 それらの間の違いもあまり大きくありません。 ウィンドウシステムそのものについての研究は 現在ほとんど行なわれていないといえるでしょう。 新しい入出力装置をGUIに応用する研究も行なわれてはいますが 主流にはなっていないようです。
GUIの場合、 入出力装置が最初にある程度標準化され、 その上でウィンドウシステムの淘汰が行なわれ、 最期にツールキットやアプリケーションの淘汰が行なわれるという風に ボトムアップに進化が進んできました。 Ubiquitous Computingの場合、 現在は非常に沢山の研究が行なわれており 混沌としていますが、 数年たてばやはり ボトムアップに収束していくのだろうと予想されます。

GUIシステムのユーザは大抵ひとりだけなので 個人が使用しやすい環境についてだけ考えればよかったのですが、 ユビキタス計算機の場合、 ひとりだけで使うのではなく、 複数の人間でシステムや環境を共有して使うことも多いと考えられるので、 GUIシステムよりもはるかに広い領域について考えておく必要があります。
UbiCompの現状や課題をボトムアップに考えてみましょう。

ハードウェア

IDの表現
UbiCompでは ユーザや計算機や操作対象の種類や位置を識別する必要があります。 現在、商品などを識別するためにバーコードが広く使われていますが、 電源供給と通信を行なうためのコイルと記憶装置を一体化した 「RFIDタグ」もだんだん普及しつつあります。 RFIDタグは単体で 物流業界ではすでにかなり使われていますが、 ICカードと組みあわせて定期券や電子マネーとして使う 試みが最近増えているようです (eTRONカード、ソニーのFeliCa、FeliCaベースのJR東日本のSuicaなど。) 普通のRFIDタグでは金属のコイルが使用されていますが、 印刷によってアンテナを生成する技術も開発されており、 将来は1個5セントぐらいでできるようになるそうです。 モトローラは、 コイルのかわりに静電容量を使うBiStatixという技術を開発 しています[*4]。 アンテナをより簡単に印刷することができる このような技術により、 服のようなものを含むあらゆる商品がRFIDタグつきになるかもしれません。 こういったタグがついた商品では 出所の証明(Source Verification)が可能になるので、 そうでない商品はほとんど売られなくなるだろうという予想もあります。

SmartDust
SmartDust[*5]は、 計算機,各種センサ,通信装置を 1mm角の立方体に格納してしまおうという野心的なプロジェクトです。 現在まだこのサイズのものは実現できていませんが、 市販の部品を使った様々な “COTS(Commercial-Off-The-Shelf) Dust”が 試作されています。 これほど小さくなるとDustがどこにあるのかわからなく なってしまいそうですが、 3枚の鏡を直角に配置して 再帰反射(入射光の方向に光が反射する)させることにより 位置を特定ようになっています。


SmartDust最終形ののイメージ

三面反射鏡を用いた“Macro Mote”

ソフトウェア

ウィンドウシステムの場合は 「WYSIWYG」という言葉が一時流行したことからもわかるように、 画面上で目で見えるウィンドウやアイコンなどが 直接操作する対象なっていました。 実装の面では、それらの対象に対してソフトウェアコンポーネントを 対応づけるという都合がよいので、 大抵のツールキットではウィンドウやGUI部品を オブジェクトとして扱うオブジェクト指向ライブラリ使うのが 一般的になっています。 また、ウィンドウシステムの場合は 入力装置はマウスやキーボードに限られていましたから それらを「イベント」として扱う 「イベントベースプログラミング」が普通になっています。 このように、 現在使われている大抵のツールキットは イベントベースプログラミングをサポートする オブジェクト指向ツールキットです。 しかし、UbiCompの場合はかなり状況が異なります。 UbiCompのオブジェクトは見えるとは限りませんし、 イベントは離散的とは限りません。 例えば、、場所や時刻をもとに処理を行なう 「買い物思い出しシステム」を考える場合、 場所や時刻は離散的な情報ではありませんから、 「夕方」「スーパーの近くで」といった条件を イベントとして表現しにくいですし、 「パンを買う」といった行為をオブジェクトとして 表現するのもうまくなさそうです。 現存のオブジェクト指向ツールキットで このようなアナログ的なイベントや操作対象を扱うのは うまくいきそうではありません。 UbiCompで扱うハードウェアは、 タグやSmartDustのように 小さくて物理的に見えないために操作が困難である場合も多いでしょうし、 日常的すぎて心理的に見えないような対象を 扱わなければならないのも面倒です。 例えば、道や壁などはあまりにも日常的ですから その存在を普段意識することはありませんが、 そのような対象もうまく扱えるようにしなければなりません。 対象が見えない場合、 それを制御するための簡単な方法がありませんし、 エラーメッセージを示す手段もないでしょう。 どうやら UbiComp環境のためのツールキットは ウィンドウシステムのツールキットを改良するだけでは到底だめで、 全く新しいソフトウェアのデザインが必要になりそうです。

UbiCompのソフトウェアをつきつめて考えると、 AIの世界で問題になった様々なテクニックが 復活してくると考えられます。 センサの数が増えてきて 状況に関する非常に沢山の情報が入力された場合、 必要な情報とそうでない情報を見分けて適当な処理を行なう 必要がありますが、 これは現在のロボット制御に必要なAI技術と同じようなものです。 現在研究されているUbiCompシステムではこれを “Context awareness” と単純に表現していますが、 環境が複雑になるにつれてAI的手法はより重要になってくると 思われます。

UbiComp環境では ユーザが自分で環境をプログラミングする必要も多くなって くるでしょう。 ビデオ予約のプログラミングが難しいとよく言われますが、 それよりはるかに難しい処理を簡単に指定できるような エンドユーザプログラミング環境が必要になってくるでしょう。

応用分野

ユビキタス計算機はそもそも何に使えるものなのでしょうか? ユビキタス計算機環境が完全に実現された世界では、 計算機がどこにでもある環境は全く生活の一部ですから 「紙って何に使うの?」と聞くようなものでしょう。 しかし、それ以前の状態においては 徐々にユビキタス環境が浸透していくことでしょう。

Personal Server
UbiComp研究の草分けともいえるParcTabを開発したRoy Want[*6]は、 現在Intelで「Personal Server」というシステムを提案しています。 Personal ServerはBluetoothで通信する超小型サーバPCです。 普通のPDAの場合、 とりあえず持ち歩けるデータのみを携帯して使うという考えが 基本になっていますが、 Personl Serverでは 必要なあらゆるデータを超小型PCに入れて持ち歩き、 近くにある入出力端末を使ってデータを処理するようになっています。 現在すでに数GBのPCカード型ディスクが存在するわけですから このような手法が有利な場合もあるでしょう。


Personal Server

Disappearing Computer Initiative
ヨーロッパでは、 ドイツGMDのNorbert Streitzの統括のもとで 「Disappearing Computer」プロジェクトが開始されようとしています[*7]。 このプロジェクトは 13ヶ国37研究所の共働で行なわれるもので、 現在目にするようなものとは異なる計算機を実世界に浸透させたときの 様々なな応用をツールについて考えていこうとしています。 UbiComp的なオフィスを構築しようというものから 布の中に計算機を編み込もうというものまで、 沢山のサブプロジェクトが提案されています。

プライバシ/セキュリティ

個人で使うことが前提になっている現在の計算機に比べると UbiCompではプライバシやセキュリティの問題が大きくなってきます。 鞄にこっそりSmartDustを放り込まれたりすると プライバシもセキュリティもあったものではありません。
現在のUbiComp研究者のほとんどは、 プライバシやセキュリティよりも、 いかに面白いものを作るかの方に興味があるようですし、 セキュリティの専門家は現在の計算機の対策に忙しいので、 UbiCompにおけるセキュリティ/プライバシ対策は遅れているようです。 しかし、今後はこれらに対する法的規制が厳しくなる動きがありますし、 時差にUbiComp環境が実現された時点では これらを無視するわけにはいかないでしょう。 プライバシやセキュリティの対策は金がかかりますが、 逆に商売のチャンスにもなると考えられます。 UbiComp時代にふさわしい、柔軟かつ強力なプライバシ/セキュリティ 対策が今後重要になってくると思われます。


あらゆる道具や環境と計算機が融合して 日常生活と計算機処理が不可分となり、 今回紹介したようなUbiComp関連単語がすべて死語となるのは いつのことでしょうか?

  1. http://nano.xerox.com/hypertext/weiser/UbiHome.html
  2. http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4788507307/
  3. 「パソコンを隠せ、アナログ発想でいこう ――複雑さに別れを告げ、<情報アプライアンス>へ」 ドン・ノーマン著/岡本明、安村通晃、伊賀聡一郎訳
    http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0730-7.htm
  4. http://www.2wayradio.mot.co.jp/html/misc/RFID/bistatix.html
  5. http://robotics.eecs.berkeley.edu/~pister/SmartDust/
  6. http://www.ubicomp.com/want/
  7. http://www.disappearing-computer.net/

Toshiyuki Masui